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奈良県の地勢と人口

奈良県は日本国内では近畿地方に位置し、日本列島全体では東西のほぼ中央、やや南寄りに位置する県です。県域は紀伊半島の内陸部にあたり、南北にやや長くなっています。県の総面積は3,690.94平方キロメートルであり、日本の48都道府県で8番目に面積が狭く、特に日本の内陸8県(栃木県、群馬県、埼玉県、山梨県、長野県、岐阜県、滋賀県、奈良県)ではもっとも狭い県になっています。
奈良県内には12の市と、7郡に分かれる15町と12村の計39自治体が存在します。県内の「村」の読みはすべて「むら」であり、「町」の読みはすべて「ちょう」になります。また県域の北側を京都府に、東側から南東側を三重県に、西側の北寄りを大阪府に、西側の南寄りから南側にかけては和歌山県に接しています。
令制国における大和国の領域にあたる奈良県は、西南日本を九州東部から関東へと横断する世界第一級の断層、中央構造線(メディアンライン、メジアンライン、MTL)によって、北側と南側のエリアに大別されます。この南北の区分のほかに、旧国名「大和国」に由来し、北和、中和、西和、宇陀(東和)、吉野(南和)の5区分が存在します。ただその境界に厳密な定義はなく、やや曖昧になっています。
北和エリアは、奈良県の北部でも最北端を指し、主に奈良市と生駒市を含める他、大和郡山市、天理市、山添村を加えることや、さらに生駒郡を含めることもあります。北和では大正期に今日の近鉄奈良線が開業したことにより、大阪府との結びつきが強まり、現在でも住宅地や繁華街としての開発が進んでいる、県内の中心市街地です。
中和エリアは、奈良県北部でも、奈良盆地の周辺に位置する地域を指し、主に大和高田市、橿原市、桜井市、御所市、香芝市、葛城市、北葛城郡広陵町、磯城郡の川西町、三宅町、田原本町、高市郡の高取町と明日香村を指しますが、橿原市の近鉄南大阪線より南、御所市、高市郡は南和に含まれることもあります。都市化が進み人口が増加しつつある香芝市、大和高田市などの西部と、盆地であることから農村地帯も多く見られる橿原市、桜井市などの東部では、同じエリアでも風景や環境などが大きく異なります。
西和エリアは、奈良県北西部でも主に生駒郡の平群町、三郷町、斑鳩町、安堵町と、北葛城郡のうち上牧町、王寺町を指し、西大和(にしやまと)とも呼ばれます。エリア内を大和川が流れ、竜田越奈良街道が通っているため古来より大阪との結びつきが強く、また明治時代には関西本線(大和路線)が、高度経済成長期には西名阪自動車道が完成したことにより、ニュータウンなどの住宅開発が進んでいます。
宇陀または東和エリアは、奈良県東部、宇陀市とその周辺、宇陀郡の曽爾村と御杖村を指す他、吉野郡東吉野村も含めることがあります。地理的には大和高原の南、竜門山地の東にあたり、南西部は盆地状で北東側に室生火山群が位置し、南東側には高見山地が広がっています。
吉野または南和エリアは、奈良県南部の一帯を指します。エリアとしての定義は非常に曖昧で、南和エリアとしては、五條市および吉野郡全域を指しますが、橿原市の南部や御所市、高市郡が含まれる場合もあります。中和エリアと一体となって「中南和」と呼ばれることも多く、また五條市と吉野郡の3町は「五條・北部吉野地域」に分類される場合もあります。
南和とほぼ同じエリアを指す吉野の地名は、古くより大和国の南部一帯の地名として使われてきたもので、特に吉野山から大峰山にいたる山岳地帯を指しました。現在の奈良県の3分の2に近い面積を占める森林地帯であり、その面積は神奈川県や佐賀県に匹敵します。
吉野エリアの範囲は、主に吉野郡に含まれる各町村ですが、五條市を含む場合もあります。自然や史跡が豊富なことから観光地として発展している他、大淀町をはじめとする北部の一部地域は近鉄吉野線の沿線であることや比較的、可住地が多いことから、大阪市や京都市のベッドタウンとしてニュータウンなども開発されています。一方、それ以外の村にあたる大半の地域は険しい山地にあたり可住地面積が少ない他、道路網の敷設の遅れなどもあって交通の便も悪く、各村の人口も1,000人前後と少なくなっています。
奈良県の北部は奈良盆地や大和高原など、おおむねなだらかな地形が広がっているのに対して、南部は大台ケ原や近畿地方では最高峰である八経ヶ岳(八剣山)など、紀伊山地の急峻な地形となっています。
奈良盆地は奈良県の北西部に広がり、大和盆地、大和平野とも呼ばれる標高100メートル以下の断層盆地です。東西に10キロから15キロ、南北に25キロから30キロで、面積は約300平方キロメートルの菱形に近い盆地です。東側は笠置山地(大和高原)、西側は生駒山地と金剛山地、南が竜門山地に囲まれています。また北側は標高100メートル前後の平城山丘陵になっています。
盆地側の排水口は生駒山地と金剛山地の間のみであり、奈良盆地を流れる河川は、どれも大和川水系の河川であり、最終的には大和川に合流して、西に流れて大阪府を通り、大阪湾に注ぎます。盆地の北西側から西側には西ノ京丘陵、矢田丘陵、馬見丘陵などの丘陵が存在しますが、中でも大和川より南の馬見丘陵は標高70メートル前後の低さであり、平城山丘陵と共に奈良盆地の一部とされています。これらの丘陵地では大阪市や京都市、奈良市の中心部などのベッドタウンとしてニュータウンの開発が進められました。
現在では県面積の約12パーセントにあたる奈良盆地に、奈良県民の約86パーセントが居住しています。また奈良県内にある12市のうち9市の全域、またはその中心部が奈良盆地に位置しています。盆地の外にあたるのは五條市と生駒市、宇陀市の3市のみです。
大和高原は奈良県の東北部、笠置山地および宇陀山地、室生山地に属する高原地帯のことです。侵食により準平原となったなだらかな地形が隆起した隆起準平原で、奈良高原とも呼ばれます。この大和高原の南部に宇陀エリアが位置する他、南西部が盆地となっており、宇陀市の中心部などをはじめ、ベッドタウン化している地域も存在します。また自然環境が豊かであり、月ヶ瀬梅林などの景勝地も多く見られることから、観光地にもなっています。
県内の主な山地には、前述のものも含め、紀伊山地、高見山地、室生火山群、竜門山地、金剛山地、生駒山地、笠置山地があり、主要な山岳には八経ヶ岳、弥山、釈迦ヶ岳、大普賢岳、山上ヶ岳、稲村ヶ岳、大台ヶ原山、高見山、金剛山、大和葛城山、二上山、生駒山、若草山などがあります。
主な河川には、前述の奈良盆地を北から南へと流れる佐保川、富雄川、竜田川などや、南から北へと流れる寺川、飛鳥川、曽我川、高田川、葛下川などが、盆地の中央部で大和川に合流している他、県域の南部から中央部にかけてほぼ東から西へ流れる、紀ノ川水系の吉野川とその源流となる北股川、三之公川、本沢川、支流にあたる上多古川、中奥川、下多古川、井光川、高原川、高見川、津風呂川、丹生川など。
また県内の吉野郡天川村に源を発し、蛇行して県の南部中央へと流れる天ノ川は、天川村、五條市まではその名で呼ばれますが、吉野郡十津川からは十津川の名前になります。県を抜けて和歌山県南部および三重県南部との境界部にいたると熊野川と名前を変え、熊野灘に注ぎます。十津川(天ノ川)の支流には山上川、白倉川、川迫川、弥山川、中原川、黒河川、舟ノ川、旭川、新納川、滝川、栗平川、足栖瀬川、上湯川、西川などがあります。
他にも布目ダムによりダム湖が形成されている布目川。奈良県と三重県を行き来する名張川。青蓮寺川。平野川。宇陀川などがあります。
湖沼には奈良盆地やその周辺に点在する菖蒲上池、高山溜池などの多くの池をはじめ、室生ダムの室生湖。神津ダム湖。津風呂湖。吉野川の一部であるおおたき竜神湖。風屋貯水池。瀬戸貯水池。旭貯水池。猿谷貯水池。坂本貯水池。池原貯水池と池郷川などがあります。
奈良県の推計人口は、2022年(令和4年)4月1日時点で1,308,606人であり、うち男性が615,653人、女性が692,953人になります。また県内には548,307世帯が暮らしています。奈良県は可住地面積が全国的にも最下位であり、県人口の9割近くが北西部の奈良盆地(大和平野)に集中しています。その他の地域は多くが険しい山地にあたり、県内における人口の偏りが大きくなっています。

奈良県 の方でアンテナ工事に関するよくある質問

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奈良県の気候

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奈良県の気候はいわゆる内陸性気候であり、気温の年較差や日較差が大きくなっています。年間の平均気温は14.6度と全国的にはほぼ平均的な気温となっています。一方、平均の降水量は年間を通じて1333.2ミリと比較的、少ないものです。
冬場、奈良盆地では冬型の気圧配置が強まったときや、南岸低気圧が紀伊半島沖を通過したときなどに雪雲が流れ込んで積雪になることもありますが、雪が降る日数はさほど多くありません。また10センチ以上の積雪は、大半が南岸低気圧の通過が元になっています。
一報で奈良盆地から東部や南部にあたる五條エリア、吉野エリア、宇陀エリアなどは降雪、積雪となることが多く、南部の吉野郡天川村、上北山村にはスキー場が存在します。このようなエリアでは積雪が交通に影響を与えることもあります。
気象は一般的に、奈良市を基準とする北部が瀬戸内海式気候に、吉野郡戸津川村の風屋を基準とする南部が太平洋側気候に属しており、県内の天気予報も大きく北部と南部に分けて発表され、さらに北部、南部ともに2、3のエリアに分割されています。
県内の気温は典型的な盆地気候であることから、夏場はかなり蒸し暑く、近畿地方でもっとも気温が高くなることもあります。冬の寒さもどのエリアでも厳しく、近畿地方でも1、2を争う冷え込みにいたります。一般的に寒いといわれる京都盆地より、奈良盆地のほうが冬場の平均気温では下回っています。
また吉野地区は一年を通して雨が多く、日本でも有数の多雨地帯であり、台風銀座と呼ばれるエリアでもあります。

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奈良県の歴史

A

今日の奈良県の県域では、およそ2万5千年前より旧石器時代の人々が生活をはじめていたとみられています。圏域の西部、二上山の一帯は石器の素材となるサヌカイトの産出地であり、二上山北麓遺跡群には60以上の旧石器時代の遺跡が分布し、ナイフ形石器や石核、剥片などが出土しています。
縄文時代の遺跡は、現在では木津川や吉野川水系の河川が流れる大和高原や吉野山の一帯を中心に分布しています。
近畿地方では縄文時代草創期の遺跡はあまり見られませんが、奈良県で最古とみられる縄文時代の遺跡には山辺郡山添村、中峯山の大川(おおこ)遺跡があり、同じ山添村でも、布目川流域の桐山和田遺跡や北野ウチカタビロ遺跡からは草莽期の隆起線文土器が、遅瀬川流域の上津大片刈遺跡からも草莽期の爪文形土器が出土しています。
他にも吉野郡には、吉野川の流域に縄文前期、中期の竪穴住居址や炉跡などが見られる大淀町の桜ヶ丘遺跡。縄文後期から弥生中期にかけてのものである吉野町の宮滝遺跡。川上村には縄文早期から後期前期にかけての大遺跡宮ノ平遺跡が。宇陀地域には、ドングリ(団栗)の貯蔵穴などが発見されている縄文後期の本郷大田下遺跡が発見されています。
奈良盆地には布留遺跡、狐井遺跡など縄文時代早期の遺跡が分布していますが、中期の遺物はあまりみられません。また縄文時代後期の遺跡はやや多くなり、布留遺跡からは硬玉製大珠が出土しています。縄文時代晩期のものには橿原遺跡、竹内遺跡などがあり、橿原遺跡からは魚骨などが出土していることから、大阪の湾岸地域との交易が行われていたと推測されています。
弥生時代には奈良盆地を中心に集落遺跡が広がり、特に初瀬川左岸の唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期から継続した大規模集落です。同遺跡からは水田の遺構や環濠、木製農具、炭化米、高床式建物跡など水田農耕の遺構や、青銅器の生産を示す鋳型が出土しています。またその周辺にも分村的な多くの集落遺跡が見られます。弥生時代後期には盆地の周辺や宇陀地域に高地性集落が出現しています。
3世紀から4世紀頃の古墳時代前期には、畿内の豪族が周辺地域に覇を唱えています。その後の長い年月で他地域との交流や攻防、大陸との交流などを経て、現在の日本のほとんどを支配する大勢力となり、これが「ヤマト王権」と呼ばれています。
このヤマト王権が今日の皇室の祖とされていますが、他にも邪馬台国と同一視する説や、北九州に存在した邪馬台国の子孫が移住して建国したとする説、神武天皇の東遷説などもあります。
3世紀の半ば以降は、九州地方から渡ってきた豪族などの邪馬台国連合、ヤマト政権の盟主墳と見られる外山古墳群、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群など多くの古墳が奈良盆地に築造されており、今日でも墳丘長200メートルを超す6基の巨大古墳が存在し、これらを大倭古墳群とも呼びます。他にも曾布地域の佐紀丘陵に佐紀盾列古墳群、馬見丘陵の周辺には馬見古墳群が存在します。
ヤマト王権の成立以来から8世紀末までは、現在の奈良県域に大和朝廷の歴代天皇の宮と、都が置かれました。
大和時代から飛鳥時代にかけては、今日でもその範囲が特定されていない飛鳥京が置かれていた他、飛鳥時代には現在の橿原市と高市郡明日香村にかけての一帯に、690年(持統天皇4年)に着工され、694年(持統天皇8年)に完成した条坊制による中国風都城、藤原京が置かれています。そして710年(和銅3年)には、今日の奈良市と大和郡山市に置かれた平城京に遷都され、奈良時代がはじまっています。
平城京では遣唐使により、唐(中国)をはじめ諸外国との文化交流が行われました。現在の奈良市、東大寺大仏殿の北北西に位置し、諸外国から輸入した宝物を保管する正倉院は、シルクロードの実質的な終着点でした。
また古代からの神道信仰や、6世紀に仏教が伝来して以降の国策によって、奈良県内には多数の神社仏閣が存在します。蘇我馬子が創立した飛鳥寺、聖徳太子が創立した法隆寺などは今日でも知られています。さらに聖武天皇の鎮護国家政策によって、興福寺などの仏教勢力が力を強め、752年(天平勝宝4年)には東大寺で大仏開眼会が行われています。これら寺社勢力は平城京から長岡京への遷都にも影響を与えており、遷都後も元の地に残り、現地の耕作者を支配して大きな勢力となっています。
平安時代の後期には、奈良県域の北部は清和源氏の源満仲の次男で、兄に摂津源氏の源頼光、弟に河内源氏の源頼信がいる、源頼親の大和源氏の本拠地となっています。中世から近世にかけて、奈良県域は歴史上の大きな事件の舞台にはなっていませんが、温暖な気候と肥沃な盆地の存在から、当地の豪族は大きな力を持ちました。
また険しい山地が広がる県域の南部には、地の利から、ときの権力に抵抗する勢力、特に反主流派の皇族が本拠を置き、朝廷や幕府など中央政府と対立する時代が長く続きました。特に南北朝時代、後醍醐天皇の南朝(吉野朝廷)が有名です。吉野を本拠とした南朝は約60年間、京都の北朝に抵抗を続け、南北朝合一が果たされた後も活動が見られます。
鎌倉時代から室町時代も、現在の奈良県域では興福寺や東大寺などの南都寺院が大きな勢力を誇り、鎌倉、室町などの武家政権は大和に定まった守護を置けませんでした。平氏は東大寺の焼討ちなどにより南都の制圧を目論みますが、成功していません。
戦国時代には県域の北部に筒井氏や越智氏、十市氏、箸尾氏などの豪族が割拠し、抗争を繰り広げますが、どれも大きな支配勢力にはならず、細川氏や畠山氏、三好氏の支援を受けた赤沢朝経や木沢長政、松永久秀など他国勢力の武将による支配を受けます。
16世紀末には、筒井氏の戦国武将、筒井順慶が、畿内に進出した織田信長に臣従し、その力を背景にほぼ大和を制覇します。また一向宗の布教拠点として、現在の橿原市中部にあたる今井町が、信長包囲網の一角である石山本願寺と呼応し、環濠城塞都市となって信長軍と争っています。石山本願寺の住職で一向宗を率いていた顕如が信長と和睦したことで、今井町も武装を放棄しますが、信長より検断権を許され、自治都市として商工業などで発展します。
信長の死後、豊臣秀吉の時代には、筒井氏は転封となり、秀吉の弟である大納言豊臣秀長が郡山城に拠を構え、大和一帯の再編と産業の奨励などを行い、地域としての安定を見ます。
江戸時代になると、奈良県域は奈良に奈良奉行、五條に五條代官、今井には惣年寄などが置かれて、江戸幕府の直轄地となった他、郡山藩や津藩、高取藩、松山藩、また陣屋大名である小泉藩、柳生藩、柳本藩、芝村藩、櫛羅藩などの領地が存在し、分割して治められます。
中でも南部の広大な山地は、現在の和歌山県の一部も含め、五條代官所が管轄する幕府直轄地(天領)になりました。しかし実際には非常に広大な地域となるため、十津川村の十津川郷士など、各郷村による自治が行われていました。
特に奈良県域でも最南部の十津川村は、山間で農耕に向かない地形であることから、古来より免租の地域として、時代ごとの権力者の支配を受けず、なかば独立した村落共同体となっていました。
古くは飛鳥時代の内乱である壬申の乱より、幕末にいたるまで十津川村の人々は、常に免租の特権を保証する側、主に朝廷側に味方してきました。南北朝時代には南朝側が吉野を拠点とし、江戸時代初頭の大坂の陣では、多くの十津川郷士が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧しています。この功もあって江戸時代も天領として免租され、住民は「十津川郷士」を名乗ることが許されました。
周囲から隔絶した地勢により、十津川村では方言などを含め独自の文化や気風が育ち、古くからの尊王の志により、いざという時に備えて、武道に長けた者が多かったともいわれます。幕末には純粋な勤皇の志から、十津川郷士から勤王の志士となる者も多く出た他、およそ千人を越える動員力を見込まれ、宮廷の警護も命じられています。
幕末の1863年(文久3年)には、吉村虎太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の組織「天誅組」が、公卿の中山忠光を主将として大和国(奈良県)で決起し、現在の五條市に位置した五條代官所を襲撃して焼き払い、当地に「五條御政府」を立てるという「天誅組の変」が起こっています。
大和義挙、大和の乱などとも呼ばれるこの変は、直後に京で八月十八日の政変が起こったため、天誅組は暴徒として追討されることになります。五條代官所の焼き討ち後、天誅組の呼びかけにより多くの十津川郷士も参加しますが、装備の古さや戦略のなさによる劣勢や、朝廷から天誅組を暴徒とする判断が下ったことにより郷士たちは離脱しています。
天誅組は今日の高市郡高取町に存在した、高取藩の高取城奪取を目指すも敗北し、その後、追討により壊滅しています。天誅組の乱自体は短期間で失敗に終わりましたが、尊王攘夷派の倒幕運動において、初の組織的な武力蜂起として画期的なものであり、幕府の拠点である陣屋(代官所)や、大名の居城が公然と襲撃されたことは、幕府の威光を大きく失墜させるものでした。
その後も十津川郷士は、1868年(慶応3年)には高野山挙兵(高野山義軍)に参加し、朝廷御親兵として越後から会津への倒幕戦争に向かって帰還。明治維新後は全員が士族となっています。ただその一方、十津川郷士でも一部の過激派は、明治維新後も新政府の近代化政策に反対し、横井小楠暗殺事件などの事件を起こしています。

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奈良県の現在

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前述のように奈良県は可住地面積が全国でも最下位であり、奈良盆地を中心とした北西部のエリアに県の9割近い人口が集中しています。奈良盆地とその周辺の自治体は、雇用都市圏における大阪都市圏に含まれる他、さらにその周辺にあたる五條市、吉野郡の一部なども京阪神大都市圏に含まれています。
奈良県の北西部でも県庁所在地である奈良市や生駒市など、県の最北部にあたる自治体は、大阪府や京都府へのアクセスが非常に便利で、都市近郊地域、ベッドタウンとしても発展しています。奈良県内では近畿日本鉄道(近鉄)が主要交通機関の大半を担っており、県中部の橿原市や御所市、県南部の吉野町などからも、大阪都市圏へは1時間程度でのアクセスが可能です。また世界文化遺産である古都、奈良の文化財や法隆寺地域の仏教建造物など、数多くの歴史的、文化的な資産にも恵まれています。
県南部のエリアは大半が山地にあたり、吉野杉に代表される林業、紀の川におけるレジャー産業など自然環境を生かした産業が行われている他、やはり世界文化遺産の紀伊山地の霊場と参詣道など、歴史的な文化資産にも恵まれています。
県名の由来である「奈良」には、異表記として乃楽、平、平城、名良、奈羅、那良、那楽、那羅、楢、諾良、諾楽、寧楽、儺羅などがあり、読みは全て「なら」になります。京都の平安京に都が遷った後は南都(なんと)とも呼ばれ、古くは大倭とも呼ばれました。
「奈良」の由来には諸説ありますが、現在、もっとも有力なものは、古くは平、平城とも呼ばれた通り「平(なら)した地」の意で、緩傾斜地を指すとする、民俗学者、柳田國男さんの説です。他にも、「日本書紀」において、武埴安彦命の反乱鎮圧に向かった大彦命たちの軍勢が、当地の丘(平城山丘陵)の草木を踏みならしたという記録に由来するとの説。歴史学者、地理学者として名高い吉田東伍さんによる、植物の「ナラ(楢)」に由来するとの説。また朝鮮語で国を意味する「ナラ」からとする説。ツングース諸語との関連があるといった説などがあります。
奈良県の県章は、1968年(昭和43年)3月に告示されたもので、円形で左を向いた太い三日月形の中央に横棒が入ったものです。これは奈良県の「ナ」をデザイン化したもので、外の円は「大和の自然」を、内の円は「協和の精神」を表現しています。そして横の一本軸は「力強い統一」と「たゆみなき進展」を象徴したものです。
奈良県の木は、候補となる木からの県民投票により1966年(昭和41年)9月に決められたスギ(杉)です。スギはヒノキ科スギ亜科スギ属で日本原産の常緑針葉樹です。高い幹が天を突くように直立する常緑樹で、枝葉が密に繁る雄大な姿で知られます。名前の由来は、真直ぐの木「直木」からだといわれ、防風樹や住宅の木材などとしても用いられ、吉野杉をはじめ日本各地のスギがブランド木材にもなっています。
県の花は1968年3月に選定されたナラヤエザクラ(奈良八重桜)です。サクラはバラ科モモ亜科スモモ属、またはサクラ属の落葉樹の総称であり、ヤエザクラはその中でも花弁が6枚以上の八重咲きになるサクラの総称で、ボタンザクラ(牡丹桜)とも呼ばれ、多くの品種が野生種のオオシマザクラ(大島桜)とヤマザクラ(山桜)などの種間雑種である栽培品種、サトザクラ(里桜)群に属しています。
ナラヤエザクラはカスミザクラ(霞桜)の変種ともいわれ、ヤエザクラの中でも小ぶりな花が特徴です。ソメイヨシノよりも開花が遅く、4月下旬から5月上旬に花を咲かせます。県の花である他、奈良市の花でもあり、奈良市の市章の元にもなっているなど、奈良を代表する花といえます。
県の鳥は、やはり候補の鳥から県民投票によって1966年6月に制定されたコマドリ(駒鳥)です。コマドリは鳥綱スズメ目ヒタキ科コマドリ属に分類される鳥類で、全長は14センチ前後、オスは赤褐色と橙褐色、メスは橙褐色と灰色が入り混じった色彩をしています。名前の由来は「ヒンカラカラカラ」という囀りが、馬(駒)の嘶きのようにも聞こえることです。
県の魚は、キンギョ(金魚)、アユ(鮎)、アマゴです。これらは県民アンケートにより、2012年(平成24年)6月に制定されました。
キンギョはフナ(鮒)の突然変異を人為的に選択し、観賞用に交配を重ねてさまざまな種類を誕生させた観賞魚の総称です。奈良県の大和郡山市と、愛知県弥富市の弥富金魚、東京都の江戸川下流域がキンギョの三大養殖地として知られています。
アユはキュウリウオ目に分類される魚類です。川や海などを回遊し、オリーブ色の背中と銀白色の腹部をもつ美しさで知られます。名前の由来は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(「落ちる」の意)という説や、神前に供える食物「饗(あえ)」から来た説など諸説あります。成魚は全長30センチにいたりますが、地域差や個体差もあり、10センチほどで成魚となるものもあります。
アユといえば天然アユを中心に、初夏の代表的な味覚として有名です。調理法としては独特の香りを味わえる塩焼きや、揚げ物がよく知られていますが、なれずしの「鮎寿司」や「柿の葉寿司」「笹寿司」なども有名です。
アマゴはサケ目サケ科に属し、サクラマス(桜鱒)の亜種とされる日本の固有亜種、サツキマス(皐月鱒)でも河川残留型(陸封型)の魚の呼び名です。アマゴとサツキマスは大きさや模様が大幅に異なることが多く、別の種にも見えます。アマゴの漢字表記は雨子や雨魚、甘子、天魚、鯇などがあり、漢字の通り、雨の多い梅雨や初夏によく釣れるためこと、また「甘い(美味しい)魚」という意味の呼び名が転じたともいわれます。日本特産の魚であるため漢字は当て字であり、地域により使い分けていたと見られ、他にも、長野、近畿、四国などでのアメゴ、アメノウオ。紀伊半島南部のコサメ。山陰地方のヒラベ。九州のエノハなどの地方名があります。
奈良県の名産品としては、イチゴ(苺)、スイカ(西瓜)、カキ(柿)、茶葉(大和茶)などの有数の産地となっています。特にイチゴでは、県内の地名に由来する「あすかルビー」という品種が知られています。また桜井市の三和素麺も有名で、日本における素麺の四大産地、手延べ素麺の三大産地のひとつに数えられています。
前述のように、大和郡山市は日本でも代表的なキンギョの名産地であり、出荷匹数は日本一であり、近年では金魚すくい大会「全国金魚すくい選手権大会」が開催され、日本全国から参加者が集まっています。吉野地域の山間部では林業が基幹産業で、木材としてのスギは「吉野杉」のブランドで知られています。
工芸品などでは、和書・書道に欠かせない奈良市の墨や筆、茶道に欠かせない生駒市高山の茶筅で知られ、特に墨は全国シェアの95パーセントを奈良県産が占めています。中和地域では、靴下や野球のグラブなどスポーツ用品の生産が盛んな他、三郷町では江戸時代よりわら草履生産が行われており、その伝統を継ぐ和履き(雪駄、草履)の製造が行われています。
奈良県の郷土料理としては、酒粕による奈良漬け。三輪素麺を用いたにゅうめん。お茶を用いた茶粥。また柿の葉寿司、めはりずし、朴歯寿司などの寿司。吉野名産の吉野葛を用いた葛切りなどの和菓子が有名です。
奈良県のご当地ラーメンには、トンコツ、鶏ガラをベースにした醤油味で、辛く濃厚なスープに、炒めた白菜、豚肉、ニラなどを具に使用する天理ラーメンがあります。奈良県内ではチェーン店の名前から「天理スタミナラーメン」の通称、天スタと、「彩華」のサイカラーメンがよく知られています。
奈良県は文化遺産が豊富であり、ユネスコ世界遺産は「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」「紀伊山地の霊場と参詣道」の3件があり、日本全国でも最多を誇ります。
また国宝建造物も、正倉院の正倉や、東大寺の南大門、金堂(大仏殿)、開山堂、鐘楼、転害門、二月堂、法華堂(三月堂)、本坊経庫。また法隆寺の南大門、中門、金堂、五重塔、廻廊、経蔵、鐘楼、大講堂、三経院及び西室、食堂(じきどう)、聖霊院(しょうりょういん)、東室、西円堂、綱封蔵、東大門、東院夢殿、東院鐘楼、東院伝法堂など数多く、64件71棟と、全国最多になります。
史跡名勝天然記念物も148件と全国最多で、キトラ古墳、高松塚古墳、山田寺跡など10件の特別史跡。特別名勝の平城京左京三条二坊宮跡庭園、平城宮東院庭園、瀞八丁。特別天然記念物の春日山原始林などがあります。
山林が多くを占める県域の南部には吉野熊野国立公園、室生赤目青山国定公園、大和青垣国定公園、金剛生駒紀泉国定公園、高野竜神国定公園、県立矢田自然公園、県立月ヶ瀬神野山自然公園、県立吉野川津風呂自然公園など多くの自然公園が存在します。
古来よりの歴史を持ち、現在でも歴史的資産と自然の景勝が豊富な奈良県は、さまざまなフィクションの題材にもなっています。
古くは「古事記」「日本書紀」「万葉集」や「伊勢物語」。平安時代の日記文学「蜻蛉日記」「更級日記」。また「平家物語」や、源義経が一時、吉野に落ち延びたことから「義経記」。南北朝時代を描いた「太平記」などさまざまな古典文学に、当時の奈良が登場し、それらを題材にした歴史小説、映画やドラマ、漫画作品などの歴史作品にも数多く描かれています。
また奈良県は歴史ある観光地であることから、日本各地の観光名所を舞台とした、いわゆる「旅情ミステリ」ものの小説やテレビドラマなどの舞台にも選ばれています。
奈良県最南部の十津川村は、数々の歴史を持つ村であると同時に、現在では西村京太郎さんの推理小説の登場人物で、数々の2時間ドラマにおいて高橋英樹さん、渡瀬恒彦さんなど多くの名優が演じている、十津川警部(十津川省三)の名前の由来としても知られています。
命名のきっかけは、西村さんが登場人物の名前を考えながら日本地図を眺めていたとき、たまたま十津川村の名前が目に留まったことだそうです。なお十津川村の読みは「とつかわ」ですが、十津川警部の読みは「とつがわ」と濁ります。また西村さんは2022年3月に惜しくも亡くなられましたが、十津川郷観光大使も務めていました。
他にも、内田康夫さんの旅情ミステリ「浅見光彦シリーズ」では、「天河伝説殺人事件」が吉野郡天川村の天川神社を主な舞台にしており、市川崑監督、榎木孝明さん主演で映画化もされています。また同シリーズでは「箸墓幻想」も奈良県を舞台に、箸塚古墳に関連する古代史にまつわる事件に、浅見光彦が挑む物語になっています。

奈良県 にお住まいで画面にE201、E202、E203の文字が出ている方

テレビ画面に"E201、E202、E203"と表示され番組が視聴できない

アンテナトラブルの形式として、突然、ご自宅のテレビで地デジのテレビ番組がまったく映らなくなり、画面に「e201」「e202」「e203」などの記号が表示されることがございます。これはテレビやアンテナにトラブルが発生し、テレビが自己診断機能を働かせてエラーコードで原因を示している状態です。最近のテレビはコードと同時にトラブルの原因を文章で表示するものもありますが、電波受信に関するトラブルの場合は、主に前述の三種類のコードが表示されます。なおエラーコードの種類は、トラブルの原因によって他にも数々のものがございます。

「e201」は、テレビ本体に届く電波のレベルが低下しているというエラーコードです。これは主にBS、CS放送で、豪雨や大雪など、悪天候の場合に表示されることが多くなります。BS、CS放送は衛星放送のため、悪天候では、波の乱反射によって電波状態が悪化するという弱点がございます。BSでは悪天候の際に電波を切り替え、画質、音質を落とすことで受信できるようにした「降雨対応放送」に切り替わる場合もあります。悪天候による受信不良は、天候の回復と同時に自然と復旧いたします。地デジ放送では、このコードが表示されることは少ないのですが、周辺の電波状態の悪化やアンテナ機器のトラブルなどにより、ときに表示されることもございます。
「e202」は、テレビ本体ににまったく電波が届いていないというエラーコードです。原因は大風や地震などによるアンテナ角度のずれや倒れるといったトラブル。またアンテナ本体、アンテナ線、ブースター(増幅器)、分配器など、どこかに故障が発生したことも考えられます。また単純にテレビとアンテナ線との接触不良という場合もありますので、このコードが表示されたときは、まずテレビやレコーダーなどの機器と、アンテナ線との接続部分をチェックしてください。
「e203」は、該当する放送局が放送休止しているというエラーコードです。基本的に放送局が、メンテナンスやトラブルなどによって放送を休止していることから発生する不具合です。このコードが表示されたときは、その他のチャンネルを確認して、正しく映っているなら放送局側に原因があると判断できます。ただアンテナ関係の故障でも、このコードが表示される場合がありますのでご注意ください。
これらのエラーコードが表示されたときは、ブロックノイズの際と同じく、まずテレビのリセットや、テレビとアンテナ線の接続部を確認するなどしてください。それでも回復しない場合は、アンテナ関係にトラブルが起こっていると考えられます。
その場合も、やはり当あさひアンテナのフリーダイヤル(0120-540-527)にご相談ください。まずお電話口にて、コードの種類やご自宅のアンテナ環境などとお伺いして、ご自宅で可能な対策をご説明いたします。もしお電話で問題が解決しないときは、ご用命いただければ、弊社の職人が最短即日でご自宅へ出向き、現場調査で原因を特定いたします。
当あさひアンテナでは、どのようなご相談であっても、出張費、見積もり費、キャンセル費はすべて無料で対応させていただきます。またトラブルの原因を特定した後は、弊社の職人からお客様に、修理に必要な工事のご説明と見積もり価格を提示いたします。その内容にお客様が納得され、正式にご契約なされた時点ではじめて工事にかからせていただきます。それまでは決して無断で工事を進めることはなく、料金も一切発生いたしません。
さらにアンテナ工事後の保証など、アフターフォローの体制も万全のものを用意してございます。テレビ映りに不具合が発生して、エラーコードからアンテナトラブルだと思われる場合は、まずは当あさひアンテナのフリーダイヤル(0120-540-527)へとお気軽にお電話ください。

奈良県 の市区町村別対応エリア

奈良県 の施工事例

アンテナ本体 型番

  • デザインアンテナ

    型番:UAH201(最新モデル)
    (同軸ケーブル:白か黒の2色のうち、おすすめは外壁になじむ色)

    工事費込み 25,000円(27,500円税込)

    カラーバリエーションはオフホワイトライトブラウンスーパーブラックブラックブラウンの4色から現場で選択することが可能です。同じUHF20素子相当のデザインアンテナを比較した場合、業界トップクラスの受信性能、高利得を誇る大手DXアンテナ社製。本体の厚みはわずか119mm、サイズは高さ590mm×幅220mmで業界最小クラス。コンパクトサイズのため狭い屋根裏や天井裏などへの取り付けも最適。壁面に取り付けの場合は、極細のビスを6箇所打ち込んで金具を取り付け、金具にガチャンと本体をはめ込みボルトを締めるだけの簡単施工が可能なため建物へのダメージを極力軽減できます。ブースターが必要な場合はUAH201の背面にスッキリ取り付けられる構造になっており、表にブースターが露出しないので外観もキレイに保てます(弊社では電波状況が悪くない限り、なるべくブースターも屋内の、分配器の近くに隠してしております)。修理の場合、ブースター内蔵タイプのデザインアンテナとは異なり、ブースターだけの交換をできるメリットがあります。太陽光発電システムや片流れ屋根で屋根上に屋根馬を立てられず昔ながらの八木アンテナを設置できない住宅にも最適。耐風速(破戒風速)50m/sですが、屋内や外壁など、強風の影響を受けにくい取り付け位置と形状をしているため、災害にも強いアンテナとなっております。当店人気ナンバー1の地デジアンテナでございます。

  • 八木アンテナ

    型番:UA20(最新モデル)
    工事費込み 22,000円(24,200円税込)

    その昔、八木秀次博士が発明した形状(魚の骨のような形状)からマイナーチェンジを繰り返し洗練されたフォルムとなり、中・弱電界エリアにも対応可能な安心のDXアンテナ社製。UHF20素子アンテナの性能で、吹きさらしで障害物の少ない屋根上に設置することが多いため利得が高くなっております。万が一、壁面や屋内でデザインアンテナを取り付けられない物件 にも最適。従来の鉄製の太いワイヤーとは異なり、ステンレス製の丈夫で錆びにくいワイヤー(支線)を採用。アンテナマストから屋根の四隅に向けて4本の支線を張り巡らせ、さらに張り巡らせた支線の途中からも屋根馬に向けて4本の支線をバランスよく張り、合計8本の支線で頑丈に設置しております。サイズは51.8cm×34cm×101.4cmとなっており、VHF(アナログアンテナ)と比較して、大幅なサイズダウンと軽量化がなされています。しかも耐風速(破壊風速)50m/s。地デジ放送が始まる前の時代より、屋根上に設置するアンテナは災害に強くなっていると言えるでしょう。当店で人気ナンバー2の地デジアンテナでございます。

  • 2K4K8K対応 BS/CS110度アンテナ

    型番:BC45AS(最新モデル)
    工事費込み 18,000円(19,800円税込)

    2018年12月1日以降、実用放送開始予定の4K8K衛星放送(NHKのみ4K&8Kを同時配信)に備えてオールマイティーなDXアンテナ社製のBC453をBS放送、CS放送をご覧になりたいすべての方へ提供しております(大規模な集合住宅は例外)。従来の2K専用BS/CS110 度アンテナと同じでサイズで円盤の直径は45センチ。そうでありながら、電送周波数の帯域が広いため、従来のフルハイビジョン(2K放送・約200万画素)からスーパーハイビジョン(4K放送・約800万画素/8K放送・約3,300万画素)まで受信可能です。「大は小を兼ねる」と言えます。2020年のオリンピックに向けて4K8Kの実用放送がますます拡充されるということが総務省より発表され、各メーカーの4K8Kテレビは増産がはじまり、その価格も落ち着いてきました。そのような状況のなか、あさひアンテナにも2K4K8K対応BS/CS110度アンテナの問合せが数多く寄せられております。最新式のアンテナでも、大量仕入れでコストをおさえて仕入れておりますので、低価格を実現できました。